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【長崎】雲仙・普賢岳大火砕流惨事から29年

2020年06月03日

43人の死者・行方行方不明者を出した雲仙・普賢岳の大火砕流惨事から丸29年となりました。島原市では新型コロナ対策のもと追悼行事が行われました。1991年6月3日の大火砕流は消防団員や警察官、住民、報道関係者、タクシー運転手、火山学者ら43人の命を飲み込みました。3日朝、被災者の多くが移り住んだ仁田団地の献花所には島原市職員や警察官、遺族らが訪れました。皆マスクを着け、手指消毒や検温をしてから間隔を空けて並び一人ひとり花を手向け祈りを捧げました。古川隆三郎島原市長は「29年前、私は消防団員でした。亡くなった12名の団員は私と同じ世代でした。今子どもたちは、普賢岳のことを知らない子どもたちが多いと思います。でも地域住民と一緒に自助、共助、公助、まさに向こう三軒両隣、住民が一体とならなければできないことですので、こういったことを災害の教訓とともに子どもたちにしっかり根付かせるこのことがこれからの防災対策の要であると思っているので、住民と子どもたちと一緒になって防災を築き上げていきたいと思います」と話しました。遺族は「私たちには変わることはないですし日本全国、色んな災害がある中で地震でも何でも他人事でもないし、とにかく家族を守ってくださいということだけです」と話しました。全校児童321人の島原市立第五小学校では例年体育館で開いている「いのりの日集会」を今年は「3密」を避けるためオンラインで各教室に配信する形で行いました。1年間噴火災害について学んできた4年生の代表4人がカメラに向かって作文を発表しました。「大勢の人が命を奪われてしまい、とてもかわいそうだと思いました。もう二度と普賢岳は噴火しないよう願っていきたいと思いました」。子どもたちは被災者の話を聞き、犠牲者に黙とうを捧げ命の大切さを噛み締めました。児童は「災害の時と今(コロナ禍)の時が困難に立ち向かうというのがとても似てるなと思いました」「これから自分の命を守って感謝の心を忘れず生きていこうと思いました」など話しました。大正9年(1920)6月3日生まれで100歳になった島原市の平田ミエコさんは噴火当時、島原市内で営んでいた時計店にも火山灰が降り積もったことを覚えています。「赤や黄色いのが降ってきたりした。店はもう開けられない、開けたって客は来ない。今(コロナ禍)と一緒でした。普賢岳がそうなってびっくりした。噴火するってこういうことかと」と話しました。そして大火砕流が発生した午後4時8分。亡くなった消防団員の詰め所だった北上木場農業研修所跡では追悼の鐘が鳴らされ、遺族らが黙とうを捧げました。約200本のキャンドルが並んだ雲仙岳災害記念館主催の14回目の「いのりの灯」。例年地元の小中学生が手作りした約1000本を並べますがコロナ対策で縮小されました。点灯式を中止し、キャンドルは記念館のスタッフで並べ午後4時8分に火を付けました。高校生の慰霊コンサートも中止されましたが雲仙岳災害記念館のホームページで島原高校と島原特別支援学校高等部、島原商業高校の演奏、それにV・ファーレン長崎の選手、監督、社長のメッセージ映像が公開されています。「未来に向かってがまだせ!島原」。キャンドルの数は減っても犠牲者の追悼と噴火災害の教訓をつなぐ思いは変わることはありません。