「車いすの被爆者」と呼ばれた故・渡辺千恵子さんが、被爆後の苦しい生活を支えるために編んだセーターが、被爆者運動の歴史を伝える資料として長崎原爆被災協に寄贈されました。
カラフルな配色の毛糸のベスト。編んだのは、1993年に亡くなった被爆者の渡辺千恵子さん(享年64)です。渡辺さんは16歳の時、爆心地から約3キロの三菱電機製作所で学徒動員中に被爆。鉄骨のハリの下敷きになり、下半身の自由を奪われるという二重の苦しみを背負いながらも、反核運動の先頭に立ち、「車いすの被爆者」と呼ばれました。
渡辺千恵子さん(1956年・当時27):
「そこで私は立ち上がろうとしたんです。ところが鉄骨に挟まれていた私の体はエビのように曲がっていて、頭と足がぴったりくっついていたんです。もがこうにももがくことができずに大声を上げて助けを求めたんです。既に足の感覚は全くなく、もちろん立つことも歩くことさえもできない体になっていたんです」
寄贈したのは、長崎市の平野妙子さん(72)。渡辺さんと40年以上の親交があり、セーターは渡辺さんにお願いして既製品と同じ柄で編んでもらったと言います。
平野妙子さん:
「タンスに眠っているより、たくさんの人に見てもらって、千恵子さんがこんなにお上手だったということを見てもらった方が生かされるので」
被災協は設立70年の今年、被爆者運動の歴史を伝える展示をリニューアルする予定で、被爆者が治療費や生活費を稼ぐために製作していた物の提供を市民に呼びかけたところ、平野さんが寄贈を申し出ました。
平野妙子さん:
「(千恵子さんは)ヒマワリのようだなって本当に思っていたんですよ。車いすに座っている姿が輝いているというか、(著書に)『未来はあなたたちのものです。だけども、その未来をつくるのは今のあなたの行動と決意にかかっています』という文章がある。だからそういう渡辺さんの思いを知ってもらえたらいいなと思っています」
長崎被災協 横山照子副会長(84):
「被爆者も身を削って自分の治療に勤しんできたということをわかってほしい。その土台を千恵子さんが作ってくれた」
千恵子さんの甥 渡邊宣博さん(71):
「長時間座ることができなかったもんですから、休み休みずっと作ってましたし、何の保証もないとかそういった時代から何とか手に職をつけようと皆さん頑張ってこられたことが、こういう形になって残っているっていうのはやっぱりそのアピールポイントにもなるんじゃないかなと思いますけど」
被爆詩人の故・福田須磨子さんが作っていた銀杏人形など新たに寄贈された資料は、被災協地下講堂で6月以降展示されます。