長崎原爆の日、8月9日に営まれた平和祈念式典。原爆が炸裂した午前11時2分に平和公園の「長崎の鐘」の音が鳴り響き、長崎は祈りに包まれました。
鐘は2005年から毎月9日、原爆犠牲者を悼み、平和な世界を願うため被爆者たちが平和公園を訪れた人たちと一緒に鳴らし続けています。
中村キクヨさん、101歳。体調が許す限り、平和公園に足を運び、鐘を鳴らしています。
中村キクヨさん(101):
「いまは戦争があってますけど、やはり核を使わない平和な世の中になるようにそれを祈って、鐘を打ちました。80年になりましたけど、なかなか平和というものが来ないのが一番私にとっては悲しいことですけど、私にできるだけの平和の運動ですから大きなことはできませんけど、これだけが私の生きがいです」
キクヨさんは被爆者4団体の一つ、長崎県被爆者手帳友の会の顧問を務め、1967年の発足から関わってきました。以来60年以上にわたって被爆者運動や平和活動を続けています。
爆心地から5・8キロ。キクヨさんは21歳の時、いまも暮らす長崎市小瀬戸町の自宅の庭で被爆しました。山々を隔てているにもかかわらず、爆風で吹き飛ばされ、1時間半ほど気を失いました。
中村キクヨさん(101):
「爆風がばーっと来たんですよ。飛ばされましたからね。お隣に爆弾が落ちたかと思ってね。家の中はガラスとかほとんどないんですよ。ふすまもみんな吹き飛ばされて。大きなタンスだから、柱に隙間に母が長男を抱いてじっとかがんでいて座っていたんですよ」
自宅近くには診療所があったため9日の午後には、重傷を負った長崎医科大学の学生ら十数人が船で次々と運ばれ、近くの砂浜で救護に当たりました。
中村キクヨさん(101):
「顔を見れば『水を、水を』って言うんですね。連れてきた方には水を欲しがっていますよって言ったら、『水をあげたらすぐに亡くなりますよ』って。『水は駄目です』って言われて」
「タオルを巻いていたんですよ、そのタオルに水を含ませて、絞ってあげたんですよ。端から3番目くらいの人が『お母ちゃん』って言われて本当にかわいそうかったですね。あの姿が」
「中には『ありがとう』って小さな声で『ありがとう』ってそういわれる方もいましたしね。その方もみんなあくる日には亡くなりましたからね」
翌日の8月10日、父と爆心地付近の岩川町に住んでいた叔母と姪を捜しに向かいました。しかし、八千代町付近で憲兵に止められ、引き返すほかありませんでした。
中村キクヨさん(101):
「『もう駄目です』『向こうは人ひとりいません』って。家も一軒も立っていませんって。いまだにまだ何も残ってないですからね。岩川町を通るたびに、この下に遺骨があるんじゃないかってそれだけがね本当に悲しいですけど」
長崎駅では、目を覆いたくなるような光景が広がっていました。
中村キクヨさん(101):
「駅は死体の山で、亡くなった方が、そのまま大事にちゃんと寝せているならいいけど死体が重なって、人間の状態ではないんですよね。顔がどこやら足がそこやらわからない状態の人たちばかりでしたからね。怖くて、見きれなかったです」
キクヨさんは、友の会の発足後、離島に出向き、被爆者健康手帳の取得を働きかけ、被爆地域拡大のために何度も上京して国会議員らに陳情するなど被爆者の悩みに寄り添ってきました。
2006年の平和祈念式典では、被爆者代表として「平和への誓い」を読み上げました。この時、初めて明かしたことがありました。
中村キクヨさん(当時82):
「つい3年前、55歳を迎えた被爆2世の次男は、白血病で亡くなりました。放射線がまだ生きていたのです。先生から『次男の廣さんの白血病は、母体からもらったものです』と言われたこの一言が忘れられず、私は今も苦しんでいます」
語ろうと決めたのは、廣さんら被爆2世にもたらす被爆の影響への検証が少しでも進めばとの思いからでした。
中村キクヨさん(101):
「遊びに行って、食事も一緒に外に出て浜町に連れて行ってね、食べさせてくれました。本当に優しい子でした。息子にいまだに申し訳ないと思っています。代わりに私が死ねばよかったけど申し訳ない気持ちでおります」
被爆者を苦しめ続ける原爆。海外に渡って証言活動を続け、米国・ニューヨークの国連本部でも被爆の実相を伝えました。
中村キクヨさん(当時88):高校生と韓国へ
「高校生の方と共にして本当の被爆の実態をお話したり、平和の尊さをお話したい」
中村キクヨさん(101):
「平和がどんなに大切なものであるかということをお話していくほか、私たちにはないですからね。それしか」
7月中旬に開かれた友の会の総会。キクヨさんは「最後になるかもしれない」との思いで参加しました。7月1日、101回目の誕生日を迎え、共に歩んできた仲間たちが盛大に祝いました。
中村キクヨさん(101):
「友の会は私の実家みたいなことで、創立以来、ここで生まれ育ったみたいな感じでね。こうして、平和団体がいつまでも続いていくように、いつも願っています。後を継ぐ人たちも、私のようにずっと長く平和運動を続けてもらいたい」
核戦争の危機が高まる中、迎えた被爆80年。世界は分断を深め、武力衝突や報復の連鎖を断ち切れずにいます。
中村キクヨさん(101):
「国が戦争を始めて、一番困るのは、その国の市民ですからね。本当に戦争だけはお互いに人間だったら、気持ちがあれば、話し合いで、解決できないものかと思いますけどね。ただ平和を訴えるだけが、私の生きる力ですから。あの世に行くまで、息の切れるときまで原爆はダメだということをね、平和という言葉を叫んで。あと何カ月か、何時間かわかりませんけど、気持ちはとにかく平和を訴えたい。それのみです」