25日、長崎で先行公開が始まった映画「長崎-閃光の影で-」に出演している元看護学生の95歳の被爆者の女性。映画を通して未来を生きる若者に伝えたいことがあります。
「はよ立派か看護婦になって兵隊さんば助けられるようになりたかもんね、行ってきます」「なんね、あれは?もしかしたら新型爆弾かもしれんて言いよる」
25日長崎で先行公開された映画「長崎―閃光の影で―」。
1945年、原爆投下直後の長崎で、若き看護学生たちが、医療態勢もままならない状況下で命と向き合い続けた1カ月に及ぶ救護活動の日々が描かれています。
主題歌は福山雅治さんがプロデュース・ディレクションを担当した「クスノキ ―閃光の影で―」。2014年に発表した自身の楽曲を、本作のためにアレンジを加えたものです。
監督を務めたのは時津町出身の映画監督、松本准平さん(40)です。祖父が被爆者の被爆3世です。
22日、東京・日比谷で開かれたプレミア上映会では松本監督や主演俳優らが映画に込めた思いを語りました。
時津町出身・被爆3世 松本准平監督(40):
「映画を始めたときからいつか、長崎の原爆について描きたいと思っていました。その映画がこの節目の年にこうした形で皆さんにお届けできるのを光栄に思います。日本人から発信できるものがあると思いますのでこの作品を見ていただいて、響くものがありましたら、ぜひ周りの方々にも伝えてそれぞれの立場で平和の思いを広げていけたらと思います」
俳優・菊池日菜子さん(23)田中スミ役:
「(完成に至るまで)すべての人が妥協なく、1945年の夏を追い求めて作ったと言い切れる作品だと思っております、皆さんそれぞれの感性で、それぞれの自由な目でこの映画をとらえてくださったらうれしいです」
映画のもとになったのは日本赤十字社の看護師たちが被爆から35年後に記した手記『閃光の影でー原爆被爆者救護赤十字看護婦の手記ー』。
手記には当時、救護に当たった看護師や看護学生が見た惨状が記されています。
25日、長崎市内の映画館。映画を見た人に話を聞くと…
高校生:
「長崎は被爆地でもあるし、実際時自分のひいおばあちゃんやひいおじいちゃんも経験したことだから」
高校生:
「原爆をまだ知らない人でも(映画を)見たら原爆の恐ろしさが伝わるいい映画だと思いました。県外の人にも見てほしいし、ちっちゃい子にも見てほしい」
手記を寄せた一人で、映画にも特別出演している山下フジヱさん95歳。
看護学生だった15歳の時に被爆者の救護活動に当たった救護被爆者です。
山下フジヱさん(95):
「その日は暑かったのが非常に印象的でした」
山下さんは、原爆が投下された時、爆心地からおよそ10キロにある当時の西彼・三重村畝刈郷、今の畝刈町(あぜかりまち)に疎開していました。
山下フジヱさん(95):
「戦闘機が2~3機、家の前を東から西の方へ向かって、三角形みたいな恰好で飛んでいくのが目に映りました」
手記には、当時見た光景が記されています。
「長崎に通じている県道の所まで行くと近所の人たちも不安げに話していました。1時間余りすると、道ノ尾や浦上方面から来る人たちが数カ所に負傷ややけどをして歩いてきたのです」
(「閃光の影でー原爆被爆者救護赤十字看護婦の手記ー」より)
山下フジヱさん(95):
「髪の毛が赤く焼けただれただけでなく、もうちぢれかえって」
山下さんはその後、日赤県支部からの招集を受け、市内の救護所で勤務。医療態勢もままならない状況の中、被爆者たちの治療にあたりました。
山下フジヱさん(95):
「皮膚は破れ、戻った皮膚は焼けただれて、血行が通らないために負傷したまま蓋をしたような恰好になって、その下にできた傷の中には、3日目に入ると、丸々と肥えたうじ虫が巣を作って包帯の中まで入りだして包帯を解くたびに大きい(うじ虫を)先輩たちは取り除きました。学生の私には震えるほどの怖さでした」
「(亡くなった母親が)子供を抱いて、硬直したまま、おっぱいをやり、子どもは吸い続けて、涙も出ないまま泣きじゃくっている姿を見たとき、私も一緒に泣きたかったです」
「必ずどこかでまた被爆する国が出ると思います、それでは遅いんです。人間が死ぬんです。落とす方は簡単でしょうが、受ける方の重大さを考えてほしいと思います」
山下さんは映画を通して伝えたいことがあります。
山下フジヱさん(95):
「絶対に人間は生きるべきです。健康で、長生きして世界中と手を握り合って、行ったり来たりしながら地球を救うべきです」
「大切な役割が残されています。もう100歳を迎えようとする私が叫ぶ声ではありません。将来を持った若者たちは、その場その場で学んだことやいろいろなことを考えて自分たちも一緒になって考えることの必要性が大切だと思います」