1200人以上の市民が犠牲となった佐世保空襲から29日で80年。当時、街がどれほどの被害を受けたのか。その後の姿を写した貴重な映像がアメリカの国立公文書館に残されていました。
整備された街並みと穏やかな日常が広がる佐世保市中心部。多くの車や人が行き交い、そこには”当たり前”の平和な暮らしがあります。しかしこの街も80年前には焼夷弾が降り注ぎ、家も、人の暮らしも一夜で奪われた戦場でした。
1945年(昭和20年)6月28日の深夜から翌29日未明にかけて行われたとされる「佐世保空襲」。アメリカ軍のB29爆撃機141機が飛来し、わずか2時間で合計1000トン以上の焼夷弾が投下されました。市街地は一面の火の海となり、街の3分の1に当たる1万2037戸が焼失。6万人が被災し1242人が犠牲となりました。
アメリカの国立公文書館に残されているアメリカ軍が撮影した戦後の佐世保の街の空撮映像です。空襲から10カ月後の1946年4月。がれきは片付けられ、広がるのは更地ばかり。市街地には大きな建物が数えるほどしか確認できません。
この映像を見つめるのは、「佐世保空襲を語り継ぐ会」の酒見莞爾さん、82歳。被害を受けた後の空撮映像を目にするのは、今回が初めてだといいます。佐世保空襲があった当時、酒見さんは2歳。記憶はありませんが、伯父や母から何度も空襲の話を聞いて育ったといいます。
佐世保空襲を語り継ぐ会・酒見莞爾さん(82):
「我が家が燃え始めたんですよ。焼夷弾が落ちて伯父の話では、7つ落ちていた。爆弾が突き刺さっていた。突き刺さったら上から、火柱が出ますからね。これが家を燃やすわけです。川に顔つけてそのまま死んでる人もいる。防空壕の中で、周りの家が燃え始めて、煙がどんどん入ってきて、窒息死するときの苦しさとか。語り継ぐということの難しさはそこだと思うんです。人の痛みがわからない人の悲しみとか苦しみは、自分が体験してみて初めてわかる。だけど戦争は、体験しちゃいかんですから。いずれ長崎、広島だって、語る人や経験者も確実にいなくなります。だから、こういう映像を見つけて来て振り返る時に何を考えるかが大切だと思います」
佐世保市では、空襲のあった6月29日に合わせ、空襲の死没者を追悼する「献花式」が開かれ、体験者や市民ら約70人が花を手向けました。去年までは、6月29日に「死没者追悼式」を開催していましたが、高齢化などを理由に遺族会が去年3月に解散したことを受け、「献花式」に式の形を変えました。
佐世保空襲犠牲者遺族会・臼井寛元会長(91):
「仲尾ヨツ、実、サツキ3人です。私の祖母と叔父、叔母。(空襲の)2日前に遊びに行きましたらおばあちゃんが私に洋服を準備してくれていたんですよ」
佐世保空襲犠牲者遺族会の元会長の臼井寛さん、91歳。空襲があった当時は11歳、小学5年生でした。
小さい頃からかわいがってくれていた祖母と叔父と叔母の3人は逃げ込んだ暗渠の中に火の手が周り、命を落としました。小さな体で走って逃げる中、臼井さんの目に焼きついたのは、赤く染まった空と、立ち上る煙。燃えさかる街の光景でした。
佐世保空襲犠牲者遺族会・臼井寛元会長(91):
「逃げる途中に佐世保の街が火の雨になっているなとだいぶ燃えているとわかりました。空襲前は建物も多くて非常ににぎやかで特に三ヶ町は派手でした。ところが燃えてからは焼け野原になってしまったものですからみんなどこに行ってしまったんだろうと」
目の前で変わり果てた街、そして、一夜にして失った大切な家族。臼井さんの心に残るのは、戦争がもたらす「理不尽」です。
佐世保空襲犠牲者遺族会臼井寛元会長(91):
「『この戦いは”正義の戦い”』と言われて育てられました。自分の妻を亡くしたおじいちゃんがお経を唱えながら(祖母の遺体を)燃やすときに言っていました『こんなばかな戦争を誰がやったんだと』世界から戦いをなくす方向へつないでいくというのが我々の最後の役目だと考えています」
戦後80年。かつて焼け野原となった佐世保の街で、今は穏やかな日常が営まれています。
体験者の声が少なくなる今、当時の映像や記憶に触れ、考えること。それが、平和な日々を守るための、私たちにできる一歩なのかもしれません。