太平洋戦争中、長崎市にあった収容所に外国人捕虜として収容され、原爆や病気で亡くなった犠牲者を追悼する祈念式があり、遺族らが祈りを捧げました。
外国人捕虜の犠牲者を追悼する平和祈念式には、オランダ人元捕虜の遺族ら約30人のほか、オランダ大使館関係者や被爆者ら約80人が参列しました。長崎原爆資料館そばの追悼祈念碑の前で原爆が炸裂した午前11時2分に黙とうし、献花しました。
太平洋戦争中、今の長崎スタジアムシティの場所にあった福岡俘虜収容所第14分所。当時、三菱重工長崎造船所の幸町工場の敷地内にありました。オランダやイギリス、オーストラリア、アメリカの捕虜延べ539人が収容され、原爆で亡くなった8人を含め112人が亡くなったとされています。
オランダから参列したロブ・シュカウテンさん(66)は被爆2世です。父・エバーハートさんは当時、オランダ領だったインドネシアから日本軍の捕虜として14分所に収容され、長崎で被爆しました。生前、「この世の地獄を見た」と語っていたといいます。
ロブ・シュカウテンさん(66):
「平和とは、お互いに同意せずとも対立ではなく対話を選ぶことです。過去を振り返るだけではなく、何よりも未来を見据えましょう。友情が憎しみよりも強い世界を」
祖国に戻れず、捕虜のまま長崎で亡くなった人もいます。アネッテ・スペイヤースさん(59)の祖父ディック・ハインさん(32歳で死去)は、十分な食事や、冬をしのぐ衣服も与えられない過酷な環境の中、三菱造船所で働かされ、32歳で亡くなったといいます。アネッテさんは、スピーチでそのことに触れた際、祖父への思いが込み上げました。
アネッテ・スペイヤースさん(59):
「私は原爆のおかげで自分が存在しているという思い込みで育ちました。なぜなら原爆投下の後、日本は降伏し、(当時8歳だった母が収容されていた)インドネシア・ジャワ島の収容所が解放されたからです。私は広島と長崎の日本の人々の苦しみを理解しています。そして二度と原爆を投下しない大切さを痛感しています」
遺族らは式の後、かつて14分所があった長崎スタジアムシティを訪れました。
アネッテ・スペイヤースさん(59):
「一人の人間として、人に親切にすること対話を通して、決して決めつけず、相手の話や背景を尊重するべきです。平和は国のリーダーら偉い人たちがつくるものではなく、私たちのような小さな存在がつくっていくものだと思っています」
立場の違いを乗り越え、共に平和を訴える追悼式は今後も続けられる予定です。