1200人以上の市民が犠牲となった佐世保空襲から6月29日で80年。当時、街がどれほどの被害を受けたのか。その後の姿を写した貴重な映像がアメリカの国立公文書館に残されていました。
撮影されたのは、空襲からおよそ10カ月後の1946年4月です。
佐世保空襲を語り継ぐ会 酒見莞爾さん(82):
「この辺が佐世保駅で魚市場で、いまの万津町の五番街。いまはこの辺を埋め立てたんですよね。だからずっとこっちに来とるんです。五番街は。これは昔の国鉄松浦線。、いまは松浦鉄道。こういってここに出てきて、これ玉屋だと思いますよ」
「ここがいまの国道。これ商店街のアーケード街。ここは佐世保川で、これは警察署です。ここが市役所です。もうちょっと行くと、いまの佐世保北高がこれがそうかもしれません。成徳女学校という、女学校があったんです。これが佐世保北高です。
「市街地をみんなやられた。みんなやられたんです。鉄筋コンクリートの建物は中は焼けています。外壁だけ残ってる。さっきの市役所とか警察署は残ってる。あくまで木造の家屋が中心である日本の都市を焼き尽くすのに開発されたのが焼夷弾ですから」
29日、佐世保市では佐世保空襲の死没者献花式が営まれ、体験者や市民ら約70人が花を手向け、平和の誓いを新たにしました。