43人が犠牲となった雲仙普賢岳の大火砕流から3日で34年です。島原で追悼の祈りが捧げられました。
3日朝の雲仙普賢岳です。雲に覆われて山頂を望むことはできません。34年前の1991年6月3日、雲仙普賢岳で発生した大火砕流によって、地元の消防団員や警察官、タクシー運転手、報道関係者など43人が犠牲になりました。
被災住民の集団移転先となった島原市の仁田団地にある追悼の碑の前には献花台が設けられ、当時消防団員だった古川島原市長や、市の職員など約70人が訪れ、犠牲者を悼みました。
古川島原市長:
「いまこれだけ風光明媚で、綺麗な島原になったのも、12名の仲間たちがあの時果敢に火砕流の中に突入していったり、家族のことや地域のことを愛してくれたことに対して改めて感謝の念が湧いています」
古川市長は、立ち入りが禁止されている溶岩ドーム「平成新山」の一般登山の解禁について、安全を最優先しつつ、専門家の知見をもとに検討する姿勢を示しました。
古川島原市長:
「万が一登山が一部分可能になったとしても安全性の確保がきちんと整備しながら、専門家であるガイドさんや火山マイスターという存在もあります。こういった方々と一緒に山に入るということをしなければ自由に入るというのは非常に難しい問題が出てくると考えております」
そして大火砕流が発生した午後4時8分。
犠牲になった消防団員・山下日出雄さん(当時37)の妻・山下睦江さん(69):
「きょうはもちろん忘れられない日でもあるし、一番悲しい1日でもあります。これまでの道のりはすごく険しい道のりであり、色んなことが本当に子育ても大変だったしここまで来るのには本当に苦労があり、本当に泣いた日も結構あり、どうしようと悩んだ日も本当にたくさんありました。でもここまで乗り越えて来られたのはやはり子どもたちがいたからだったのかなと今振り返ってみてそう思います」
犠牲になった消防団・大町安男さん(当時37)の次男・大町亮介さん(40):
「何年経っても悲しい気持ちは変わらないですし、ただこの孫とか僕ら子どもたち、家族のことを空から見守っていて下さいという気持ちで毎年来てます」