43人が犠牲となった雲仙・普賢岳の大火砕流から丸35年です。島原で追悼の祈りが捧げられました。
1991年6月3日、雲仙・普賢岳で発生した大火砕流によって、警戒に当たっていた地元の消防団員や警察官、報道関係者ら43人が犠牲になりました。
被災住民の集団移転先となった島原市の仁田団地にある追悼の碑の前には献花台が設けられ、当時消防団員だった古川島原市長ら約50人が訪れ犠牲者に花を手向けました。
古川島原市長:
「犠牲になった人のことを思い出しながらも自分たちの身の安全をしっかり考える1日であってほしいと思っています」
去年1月、長年にわたり噴火災害の記録に尽くした「普賢岳のホームドクター」太田一也九州大学名誉教授(享年90)が死去。8月には、当時「ひげの市長」と呼ばれ、災害対策やその後の復興に尽力した鐘ケ江管一元市長(享年94)が亡くなり、噴火災害と戦った人々が相次いで旅立ちました。
2人が語り継いできた思いや、防災への意識は着実に若い世代へと受け継がれています。
島原中央高校3年 安永圭伸さん(17):
「こういう災害が起きても誰一人として犠牲者が出ないようにという気持ちで折りました」
島原中央高校2年 酒井悠晴さん(16):
「自分たちが生まれてない時の災害なんですけどいつどうやって自分たちが被災するか分からないので普段から対策しておきたいと思っています」
当時報道陣の撮影拠点となり、多くの犠牲が出た「定点」には、付近の安中公民館の職員だった雲仙岳災害記念館の杉本伸一館長(76)が訪れ、手を合わせました。
雲仙岳災害記念館 杉本伸一館長(76):
「私にとると、きのうみたいな感じなんですよね。安中公民館から出ていった消防団の姿っていうのはまだ目に浮かんでますし太田先生とか鐘ケ江元市長、お亡くなりになったということでやっぱりああ35年それだけの月日が経ったのかなとそんな思いがしてますね」
島原市内の小・中学校では、普賢岳災害の教訓を継承していこうと「いのりの日集会」が開かれました。市立第五小学校では、4年生の児童代表が被災遺構の見学や家族への聞き取り、地域活動を通して学んだことを発表しました。
鐘ヶ江ひなたさん:
「私はお父さんにもインタビューをしました。お父さんは、大火砕流当時5歳だったそうです。『とにかく怖かったお父さんは怖い気持ちでいっぱいだった』と話してくれました。幼稚園も噴火でなくなり仮設の幼稚園に通っていたそうです」
川本心愛さん:
「普賢岳は膨大な被害をもたらしましたが、その半面、温泉や湧水などの火山の恵みもあります。これからも私たちは火山と共に生きていかなければいけないと思います。火山と共に生きるとは、その火山のことについて知り、防災について学び、取り組むことです。悲しい出来事があったけど私たちは6月3日のことは忘れず『命を』大切にしたいです」
集会で講話した永石一成さん(71)は、35年前の大火砕流当時、市内の第二小学校に勤務していました。度重なる火砕流や土石流によって甚大な被害を受けた安中地区の自宅は警戒区域に指定され、避難生活を余儀なくされました。また、警戒活動にあたっていた消防団員の友人2人を亡くしました。
講話では、児童らに「命の尊さを」語りかけました。
永石一成さん(71):
「一番大事なのは災害についての正しい知識を持つことです。当時、火砕流、土石流。こんなことについて私自身があまり詳しく知りませんでした。私の同級生が亡くなったのも火砕流がこんなに怖いものだと認識していなかったからだと思います。だからみんなは災害についての正しい知識を身につけてください」
松尾香耶さん(6年):
「島原の役に立つようにもっと普賢岳の災害を勉強しようと思いました」
松藤陽幸さん(6年):
「次の世代に噴火の恐ろしさとか備えとかを伝えていこうと思った」
大火砕流が発生した午後4時8分。当時、消防団員らの詰め所となっていた北上木場農業研修所跡で、遺族や関係者らが黙祷を捧げました。
犠牲になった消防団長山下日出雄さんの妻・山下睦江さん(71):
「病院に駆けつけたこと、病院で待ってる時に寒かったこと、それから対面した時のこと。色んなことが6月3日はよみがえってきます」
息子・山下譲治さん(48):
「私達家族にとっては、この日はずっと変わらない。6月3日必ずやってくる。今年、子どもたちが全て小学生になりました。学校の集会とかそういった所で災害を学ぶ機会になりました。そうやってどこかで自分の家族が、自分の縁のある人がそういった災害の中で命を落としたりとか、災害と一緒に戦ってきたというか、災害とともに過ごしてきたということを知ってくれたらいいなというふうに私は思っています」