戦後80年の時を超え、日米の絆をつなぐ浦上天主堂の新たな鐘の一般公開が始まりました。
爆心地の北東約500メートル。原爆で崩壊し、再建された浦上天主堂。高さ29メートルの2つの塔の最上部の鐘楼のうち北側の鐘楼には戦後80年間、鐘がありません。
この鐘楼につるす新たな鐘は、アメリカ・ウィリアムズ大学のジェームズ・ノーラン・ジュニア教授とアメリカのカトリック信徒ら約430人の寄付合わせて約10万5000ドル、日本円で約1535万円の資金を使ってオランダで鋳造。アメリカで仕上げをして、5月1日に空路で長崎に届きました。
高さ66センチ、直径80.7センチ、重さ224キロの青銅製です。表面には、ラテン語で神をたたえる言葉とアメリカ先住民の聖人のレリーフが施されています。キリシタン弾圧の禁制を解かれた浦上の信者たちが明治期に計画、建設を始め、大正14年(1925年)に完成したロマネスク様式の大聖堂は当時「東洋一」とうたわれましたが、1945年8月9日午前11時2分、アメリカが投下した原爆で崩壊。浦上地区に住んでいた約1万2000人の信徒のうち、約8500人が原爆の犠牲になりました。
高さ約26メートルの2つの塔のうち南側の塔の大鐘はほぼ無傷でしたが、北側の塔の小鐘は大破しました。1年以上、アメリカ各地で原爆に関する講演を行い、寄付を集めたノーラン教授。祖父はアメリカの原爆開発計画「マンハッタン計画」に参加した医師で、原爆投下の翌月には調査団の一員として広島、長崎を訪れていました。約10年前、祖父の遺品に原爆に関する手紙や、被爆した天主堂の写真があるのを知ったノーラン教授は、2020年に著書を出版。2022年10月から12月まで長崎純心大学の客員教授を務めました。
鐘の寄贈は2023年5月に長崎市を再び訪れた時に出会ったカトリック信徒で被爆2世の森内浩二郎さん(72)の提案を受けたものです。森内さんは、1865年の「信徒発見」で信仰を告白した森内てるの5代目の子孫です。
森内浩二郎さん:
「左側の鐘をアメリカのカトリックの皆さんが寄贈されたらどうなんでしょうと言ったんですよ。そしたらね、即ね、“グッドアイデア”って言われた。その時点で先生は決められた」
ノーラン教授:
「この鐘を贈ることは、私たちの悲しみや後悔、和解や許しへの願いを表すものであり、同時に彼らが長年にわたって受けた苦しみに対する私たちの経緯と尊敬を示すものです」
寄贈された鐘の一般公開は、24日(土)に浦上天主堂横の原爆遺物展示室で始まりました。開館直後、森内さんとノーラン教授が2人で考えた「希望のカテリの鐘」という鐘の仮称がお披露目されました。
今年は、カトリック信徒が「聖年」と呼ぶ特別な年で、「希望の巡礼者」がテーマとなっていることから、森内さんが「希望の鐘」という名前を提案。ノーラン教授は、鐘に北米の先住民で初の女性聖人「聖カテリ」の肖像を刻んだことからに「カテリ」を加えることを提案し、この名前になりました。
寄贈された鐘を間近で見ようと、旅行者やカトリック信徒、学生など多くの人が訪れました。
東京から:
「こんな(原爆の)被害を目の当たりにして日本でこれだけの被害、ひどいことになったということを世界に伝えて、今後、核兵器が絶対使われないということにつなげていったらと」
市内から:
「これからどんな鐘の音が鳴るのか、楽しみだなと思います」
浦上教会の教会学校に通う子どもたち25人もやって来ました。
教会学校の5年生:
「先週のミサのお知らせの時に、神父様からアメリカから(鐘が)贈られてきましたと話がありました。早く見たいなと思いました。(鐘を見て)戦争っていうのはあってはならないものと思いました」
アメリカのカトリック系の大学で原爆や福島第一原発事故など原子力と日本の関係性を学ぶ授業を受ける学生たちも訪れました。
米セント・ジョンズ大学の学生:
「この鐘は許すことや反省、熟考を表していると思う。そして私たちがそれぞれの国に限らず世界中の人間として何を望んでいるのかについて話し合う開けた会話をもたらすと思う」
仮称「希望のカテリの鐘」の一般公開は6月1日まで。そのあと7月17日に祝福式を行った後、鐘楼に収められる予定です。そして被爆から80年となる8月9日午前11時2分、戦後80年の時を超え、日米の絆を結ぶ2つの鐘が平和を願い、鳴り響きます。