被爆地域外で原爆に遭い、被爆者と認められていない「被爆体験者」。
被爆者と認めるよう再提訴した裁判の判決が9日(月)に言い渡されます。
最初の提訴から17年。「埋もれた被爆者」とも呼ばれる原告たちの思いは?
感謝の気持ちを伝えたいと思っていました。
●被爆体験者訴訟・原告団長 岩永千代子さん(88):
「私たちの命もいつまで続くかわからないけれど、私たちの苦しみは決して無駄じゃなかったんじゃないかなって思いますね」
8月9日、被爆体験者として岸田総理と初めて面会した岩永千代子さん。「被爆体験者訴訟」の原告団長です。
●被爆体験者訴訟・原告団長 岩永千代子さん(88):
「総理に申し上げます。私たちは被爆者ではないのでしょうか」
総理に直接、被爆者と認めてほしいと訴えました。
●岸田総理:
「早急に課題を合理的に解決できるよう厚生労働大臣において、長崎県、長崎市を含めて具体的な対応策を調整するよう指示を致します」
目の前で「合理的解決」を武見厚労大臣に直接指示した岸田総理。
期待が高まりました。
●被爆体験者訴訟・原告団長 岩永千代子さん(88): 「見てもらえるようにちょっと目を通してくれればね」「信じられるという喜びを感じましたって」
しかし、岸田総理は今月、退任。
これまでも政治に見放され、
被爆者と認めるよう求める裁判を17年も続けてきました。
国は原爆投下から12年後、放射線の影響があるのは爆心地から5キロとされた中、
当時の長崎市の行政区域を基に被爆者と認める地域を指定。
1970年代には隣接地域にも拡大しました。
科学的調査に基づかずに、爆心地から東西7キロ、南北12キロといういびつな形になりました。
一方、国は2002年、被爆地域外で12キロ圏内の人たちを「被爆体験者」として、区別しました。
●被爆体験者訴訟・原告団長 岩永千代子さん(88): 「精神疾患または関連する身体化症状、精神的な影響とあるから精神病でなければやりませんよってこと」
「被爆体験者」は、被爆体験を原因とする精神疾患が認められないと医療費は助成はされません。
助成される疾病は精神疾患や合併症などに限られていて、「放射線による健康被害はない」とされてきました。
一方、被爆者はほぼすべての疾病が全額公費負担で、毎月3.7万円の手当もつきます。
岩永さんは爆心地から南におよそ10.5キロ、被爆地域からわずかに離れた現在の長崎市深堀町(旧深堀村)で被爆しました。
当時9歳。この坂道で強烈な光と爆風を受け、体に異変が出たのは1週間後でした。
●被爆体験者訴訟・原告団長 岩永千代子さん(88): 「歯ぐきから血が出るなということはありましたね。髪の毛も少し抜けた。
くしの歯についてくるなって。そして今度は顔がお岩さんみたいに腫れたんですよ」
40歳ごろから声が出ない、たんに血が混じるなどの症状が出始め、
50歳で「甲状腺機能低下症」と診断。
慢性肝炎や狭心症などの治療も続けてきました。
●被爆体験者訴訟・原告団長 岩永千代子さん(88): 「ここら辺は被爆地ですよ。(爆心地からは被爆した)深堀のほうが近いのに、こっちは12.3キロあるのに被爆地。深堀は10.5キロ。不合理ですよね、納得できませんよね」
岩永さんたちが国や長崎市などに対して、被爆者と認めるよう求めて裁判を起こしたのは、2007年。
放射性物質を含む「黒い雨」や灰で汚染された水や農作物を体内に取り込み、「内部被ばくした」と訴えました。
●岩永千代子さん(当時71歳)
「私たちの運動は自分たちの利益のためではない。真実を求めてやっていくんだと」
岩永さんたちは聞き取り調査を行い、記録に残す活動もしてきました。
空から降った「黒い雨」を浴びた人、肥料に使うため灰を集めた人…
原告の数は徐々に増え、556人にまで膨れ上がりました。
しかし、最高裁まで争った結果、「放射線による健康被害が生じた可能性があるとはいえない」と判断され、敗訴が確定しました。(原告556人のうち1人だけが被爆者認定)
●岩永千代子さん(当時81歳)
「一言で気持ちを言い表すと凍てついているという気持ちです。どういう風に解釈していいか、まったく解釈できません」
原告44人は再び提訴。
死去や経済的な理由で原告の数は大幅に減り、原告一人ひとりが体験を主張・立証する戦い方に変えました。
●被爆体験者訴訟・原告団長 岩永千代子さん(88):
「やっぱり自分の病気の原因をはっきりさせたいという思いが強いんですよ。はっきりしたい。マッチに火をつけるくらいの小さな灯りだけど、無視できないということの発端になればいいなと思う」
爆心地から東におよそ8キロ離れた長崎市網場町(旧日見村)。
原告の1人、松尾栄千子さん(83)は当時4歳、幼なじみと遊んでいた時に原爆に遭いました。
●被爆体験者訴訟・原告 松尾栄千子さん(83):
「燃えているんですよね、なんでも。燃えたのがこっちのほうに飛んできていた」
幼なじみは4年後、白血病で亡くなりました。
●被爆体験者訴訟・原告 松尾栄千子さん(83):
「野菜の葉っぱ、木の葉っぱから黒い雫が落ちるのを見たんですよ。 血液の病気(白血病)が流行ったんですよね。流行り病ではなくて原爆病だったと思う」
両親はともにがんで亡くなり、松尾さん自身も乳がん3回と皮膚がん9回と手術を繰り返してきました。
●被爆体験者訴訟・原告 松尾栄千子さん(83):
「畑なんか真っ白でしょ、灰で。灰をかぶった水で、ごみなんかをよけて、その水で洗って食べてましたね」「実態をちゃんと聞いてほしいですね、嘘は言ってないんですよ、みんな」
爆心地から、東におよそ9キロの長崎市松原町(旧古賀村)。
当時11歳だった松田宗伍さん(90)は、どんよりとした空を見上げていました。
●被爆体験者訴訟・原告 松田宗伍さん(90):
「野菜などに雪のように積もった。それでもうお日様がどんよりと曇ってきた。結局は灰」
浦上方面から迫ってきたという灰はあたりを覆いつくすほどでした。
●被爆体験者訴訟・原告 松田宗伍さん(90):
「灰は水に浮いているから、ひしゃくで分けてバケツできれいなところだけすくって持って帰っていた。生活の水、飲みもするし、洗濯物もするし。お風呂にも入れるし」
当時7歳だった妻のムツエさん(86)も原告の1人。同じ地域内で被爆しました。
●被爆体験者訴訟・原告 松田ムツエさん(86):
「とにかくいっぱい降るから。今の大雪よりひどかった。それが珍しくて面白がって手で受けて、遊んだ」
ムツエさんも灰が積もった畑の野菜や水を口にしてきました。呼吸器疾患や血栓症など多くの病気に苦しめられてきました。
●被爆体験者訴訟・原告 松田ムツエさん(86):
「本当に平等に解決していただきたいというのが一番の願いです。また(敗訴して裁判が続いたら)精神的にも肉体的にも弱ってしまう。またかと」
松田さんも、腎臓病や前立腺がん、心臓病も患ってきました。
●被爆体験者訴訟・原告 松田宗伍さん(90): 「こんな体で私も長くはない。あまりにも引き延ばす過ぎではないかと。原告いじめではないかと私は思います」「今度もダメだと言われてまた福岡高裁に諦めきれないから控訴するとおっしゃれば、ついていきます。死ぬまで。あきらめきれない」
同じ被爆地・広島では3年前の2021年7月、大きな動きがありました。
広島高裁は放射性物質を含む「黒い雨」を浴びたと訴えた原告84人全員を被爆者と認定。
「水や野菜の摂取などで内部被ばくした可能性がある」とした上で、「被爆者認定は放射能による健康被害が否定できないことを立証すれば足りる」として、被爆者認定のハードルは下がりました。
政府は上告を断念しましたが、長崎は・・・
●菅総理(当時): 「今、長崎においては現在も訴訟が継続中でありますので、まずはその行方を注視していきたいと思っています」
広島では、黒い雨に遭った人を広く被爆者と認める制度が始まり、爆心地から40キロ離れた人も被爆者と認められました。
一方、長崎は「黒い雨が降った客観的な証拠がない」として、救済されませんでした。
そんな中、実現した岸田総理との面会。
岩永さんは被爆体験者が描いた絵を見せながら、原告やその家族が、苦しできた状況を訴えました。
●被爆体験者訴訟・原告団長 岩永千代子さん(88):
「私たちは政府に抗議しているのではありません。余命短いからと憐れみを乞うているのでもありません。ありのままを伝えているのです。健康はないと決めつけないで、内部被ばくがいかに人体をむしばむか、研究を深めてほしいのです」
この時、岸田総理が言及した「合理的解決」。その道筋は立っていません。
国と長崎市・県による協議は、先送りされました。
被爆者と認めるよう訴えている裁判は最初の提訴から、17年が経ちました。
主張はぶれることなく一貫しています。
●被爆体験者訴訟・原告団長 岩永千代子さん(88):
「私たちは真実を言って来たから恐れない。悲しまない。ただ亡くなった人たちに報告するのがね。あなたたちの病気はやっぱり原爆のせいだったのよねって。よく頑張ったねって。決して無駄じゃなかったよって一緒に泣きたい」