田上長崎市長が4期16年の任期を終え、25日退任しました。田上市政の16年間を振り返ります。
田上市長は退任会見で「自分なりに全力を尽くした充実感は残っています」と語りました。
16年前の2007年4月17日(火)の午後7時50分ごろ。
志久弘樹記者:「長崎駅前の伊藤事務所の前です。つい先ほど伊藤市長が撃たれました。現場はまだ騒然としています」
4人が立候補した長崎市長選挙の選挙期間3日目、4選を目指し立候補した伊藤一長前市長(当時61)が暴力団幹部の男に銃撃され、翌未明に亡くなりました。当時50歳、市の企画部統計課長だった田上さんは事件の2日後「弔い合戦」を掲げた伊藤市長の娘婿とともに補充立候補しました。
当時の出馬会見で田上さんは「肉親の情としては大変よくわかるが、それと自治は違うのではないか。本当に長崎に対する思いのある人が市長選に立候補すべき」と表明し、わずか3日間の選挙戦を制し初当選。一気に課長から市長に上り詰めました。
田上さん:「自分たちの街を自分たちの市民のリーダーとつくるんだという選択をされたというのが今回の選挙だった」
あれから16年、退任の日のきょう。田上市長は退任会見の冒頭、市民らへの感謝を語り「進化の16年だった」と振り返りました。
田上市長:「それぞれの分野についてどちらの方向に進めばいいかみんなで考えながら知恵を集めて進化させてきた16年だった」
力を入れてきたのはまちづくり。「未来の長崎が活性化する基盤づくり」として、長崎駅周辺の再整備に取り組みました。西九州新幹線の開業に合わせ、交流人口の拡大を目的に「出島メッセ長崎」を整備。2017年には出島に出島表門橋を復元し、19階建ての新市役所も今年開庁しました。
田上市長:「私が16年間の中で次の時代の基盤をつくるのをひとつのミッションと考えて進んできた。単に箱物をつくることが目的ではなくその先を見すえてその基盤となるものとしてハードが必要だったと」
被爆地の市長として国の内外の核兵器や平和に関する会議に出向き、スピーチするなど平和行政にも精力的に取り組みました。
田上市長:「被爆者がいなくなる時代が近づいている。(被爆者が)いなくなった時代にもきちんと実相を伝え続けていけるような体制作り、仕組み作りというのは私がタスキを持たせていただいた16年間のひとつの大きなテーマだった」
まちなかの景色が変わっていく中、最大の課題である人口減少には歯止めがかかっていません。田上市長が就任した2007年、約44万9000人だった長崎市の人口は現在39万5591人。去年40万人を割り、九州の県庁所在地では宮崎市に抜かれ、下から2番目になりました。市内への転入者を市外への転出者が上回る「転出超過」は全国の自治体で3年連続ワースト2位となっています。
課題は、新市長に初当選した前の九州運輸局長鈴木史朗さん(55)に引き継がれます。
田上市長:「長崎を離れていた30年以上離れていた部分もあると思う。まず地域を回っていろんな皆さんとお話をして、ぜひ現場をたくさん見てたくさんの人とお話をして現況をつかむということから始めていただければ」
一方、今後の自身の政治活動については、「ノープラン」と明言を避けました。
田上市長:「しばらくひとつのことを考え続けることをしない自由な時間を持ちたい。具体的に考えていることは何もないです」
午後、市議会議場で開かれた退任式では、共に働いた職員への感謝や、思い出を語りました。
田上市長:「長崎は魅力的な街。多様性の時代を迎える中で、ますます重要な価値になってくる都市個性という価値をあり余るほど持っている街です。長崎の街全体がひとつになってその価値を生かすためにも、市役所が『ワンチーム』となって未来の創造に挑戦し続けてほしい」
職員時代を含め長崎市政に携わって42年7カ月。多くの職員や、来庁していた市民らに拍手で見送られながら、真新しい市庁舎を出ると、職員や長崎女子高校生から花束が贈られました。
長崎女子高龍踊部3人:「私たちが生まれた時から16年間、お疲れ様でした!」
田上市長:「こういう日を迎えることができたのは夢のようなことで、16年前の突然手を挙げた日のことを思うと雲の上にいるような気持ち。16年間ありがとうございました」