伝え聞いた父の名は「ニシ・ヤイトシ」。出身地は長崎県ではないか。
戦後80年、フィリピンで新たな残留日本人2世が名乗り出ました。
日本国籍の回復と父親の情報、親族と会えることを願っています。
戦後、国籍がないまま、フィリピンに取り残された日本人が今もいる。私たちが向かった先は、首都マニラからプロペラ機とボートを使って5時間の場所にある小さな島でした。モリネ・リディアさん。父親が日本人、母親はフィリピン人だといいます。
フィリピン日系人リーガルサポートセンター猪俣 典弘さん:「Q.お父さんの名前は?」
モリネさん:「カマタ・モリネ」
フィリピン日系人リーガルサポートセンター猪俣 典弘さん:「Q.出身は?」
モリネさん:「オキナワ」
戦時中に亡くなったという父。当時まだ幼かったモリネさんは日本語を話すことが出来ません。
いったいなぜ、彼女は戦後この場所に取り残され、そして、日本人の父親のことを私たちに伝えようとするのか?それは、戦前からの歴史に遡ります。
フィリピン南部のミンダナオ島に位置する、ダバオ。かつて、この通りの角にあったのは、大繁盛していたという日本旅館。そして、近代的なデパートだった「オオサカバザール」。フィリピンには戦前、多くの日本人が移り住み、麻の栽培などに携わっていました。その数、最盛期には3万人。現地のフィリピン人と結婚し家族を持った人も多くいました。ところが、その暮らしは一変…。日米の開戦とともに、アメリカの統治下にあったフィリピンに日本軍が侵攻。しかし、アメリカ軍の圧倒的な兵力に、戦況は徐々に悪化。さらにフィリピン人の一部は「抗日ゲリラ」となって日本兵を襲いました。日本人の移民も日本軍への協力を余儀なくされました。そのまま前線で戦死したり、アメリカ軍の捕虜となって日本へ強制送還されるなど、多くの人が家族のもとに戻ってくることが出来ませんでした。戦争は終わっても…日本人移民の子供たちの苦難は続きます。迫害から逃れるため、日本人であることを隠し生きていくことに。貧困に陥り、教育も受けられない中、さらにもうひとつの大きな壁が。「国籍」という問題です。当時のフィリピンでは、子どもは父親の国籍に属すると法律で定められていました。けれども父の祖国、日本との関係も断ち切られてしまった中、フィリピン人でも日本人でもない、「無国籍」となってしまったのです。モリネ・リディアさんのように、日本人の父親と離れ離れになり、フィリピンに残った二世は判明しているだけで3815人に上ります。
そして…長い、長い月日を経て、
人生の終盤になってようやく声をあげることが…
モリネさん:「自分が日本人であることを認めてほしい」
取材開始から2年あまり。
日本の国会で、大きな動きがーー
塩村文夏議員:「親族捜しを望む二世の訪日を80年という節目の日にこの日までに実現するべくどのように取り組んでいくのか?」
石破総理大臣:「私も去年かおととしでしたかテレビでこの番組は見させていただきました。こういう問題がありますよということを知らない方々が日本人も大勢おられるわけで、これを日本国民の負担において渡航の費用あるいは親族探し、そういうことをすることは私は十分、理由のあることだと思う」
石破総理は、国として、国籍のない残留二世の来日実現への支援に前向きな姿勢を示したのです。
戦争が終わって80回目の夏。国籍の無い残留日本人は皆、80代から90代。6年前、1069人と把握されていた「無国籍」の人数は特にコロナ禍以降、激減しています。そういった中、「新たな残留二世が名乗り出た」という連絡が。猪俣さんと私たちは、ニシ・マリナさんというその女性の元へ。私たちが伝えたニュースが、フィリピンのテレビ局でも放送され、それを見て、現地の日系人会に連絡したのだといいます。
ニシ・マリナさん(80):「これまで無理だとあきらめて、どうすればいいかわからず、行動に移すことができませんでした」
フィリピン人の母親がずっと大切にしていたという父の写真。
ニシ・マリナさん(80):「母は『これがあなたのお父さんよ』と言いました。私は『お父さんは兵士だったの?』と聞いたら『いいえ、民間人よ』と答えました」
戦争が激しくなる中、行方がわからなくなったといいます。マリナさんはお腹の中にいました。伝え聞いた父の名は「ヤイトシ」。出身地は長崎県ではないか。
ニシ・マリナさん(80):「ただただ、父が大好きなんです。だから父の家族に会いたいんです。(日本にいる)親族と再びつながりたいです」
戦後80年目にして「残留日本人」だと名乗り出たニシ・マリナさん。父親との親子関係の証明、そして日本国籍の回復へ。新たな調査がスタートしました。