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NCCアナウンサー  溝田 浩司ブログ

キョウチクトウ

 0815.jpg「64年前の8月9日は霧の深い朝でした」。
知事が平和祈念式典で読み上げる「慰霊の詞」にしてはめずらしく印象に残る一文だった。足を止め、朝もやに包まれた長崎とそこに暮らしていた多くの市民を思った。やがて訪れる11時2分のことなど想像すらできなかった多くの人々の姿を、その日から人間としての幸せを奪われ、苦しみと悲しみを背負わされ続けたひとりひとりの姿を思い、深く目を閉じた。

その日アヤ子は、防空壕を飛び出すと自宅近くの友達の家へ遊びに向かった。朝から発令されていた空襲警報は解除されていた。すでに霧は晴れ、いつもと同じ夏の一日が始まっていた。アヤ子は9人家族だった。兄二人と姉一人、下には妹と二人の弟がいた。夏になると父親がかごいっぱいのビワを買ってきてくれた。温もりのある幸せがそこにはあった。

柿の木の陰にいたことが幸いだった。気がつくと一緒だった友達はいなくなり家が燃えていた。小学3年のアヤ子に、何がおきたのか理解することは難しかった。防空壕で見つけた4歳の弟は全身をやけどして泣いていた。いくら待っても、2人を抱きしめてくれるはずの母親は帰ってこなかった。アヤ子たちは知らない田舎へ引き取られた。

体中の包帯を取り替えるたびに弟は泣いた。しかし涙をふいてくれる母親はどこにもいない。やがて弟は、縁側に座ってひとり痛みをこらえることを学んだ。原爆の投下から2ヵ月。弟は全身のやけどに苦しみながら死んだ。「お母さん痛いよ」。たったひと言でいいから甘えさせてやりたかった。そしてアヤ子は一人ぼっちになった。8歳だった。

それでもアヤ子は生きていかなければならなかった。学校から帰ると毎日たくさんの仕事をいいつけられた。放射線を浴びせられた体は疲れやすく、髪の毛はぬけ歯ぐきから血がでた。病院へ行くこともできず、道具のように使われる毎日。涙のまま線路へ歩いたこともあった。川岸で一夜を明かしたこともあった。でも死ぬことはできなかった。

あの日から64年が過ぎた。わずかに風が吹き渡る平和祈念式典の会場に奥村アヤ子は立っていた。多くの参列者を前にアヤ子は「平和への誓い」を淡々と読み上げた。
「両親や兄弟がいない生活は地獄そのものでした。このような苦しみ、悲しみは他の人たちに味わわせたくありません」

「千羽鶴」の合唱を聴きながら、金属探知機のあるゲートを抜け平和の泉に向かって歩いた。どこへ行くのか、大きなカバンを引いた若者や子供をつれた母親らが同じ方向に歩いていた。泉の前ではサングラスをかけた女性が携帯で写真を撮っていた。階段のそばに、今年もキョウチクトウが赤い花をつけていた。

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溝田 浩司

1990年4月入社
福岡県出身
福岡大学卒
0型

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