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NCCアナウンサー 溝田 浩司ブログ:2008年10月
月のない夜に
"月のない夜の道にその穴は現れた。
いつからだろうか、穴は石積みの塀が続く坂道の途中にぽっかりと空いていた。きのう歩いたときは気づかなかった。長く続いていたアスファルトの白線はそこで途切れていた。まるでそこで地平が終わったかのようにぷっつりと。どのくらいの大きさなのだろうか。坂道を上る足が少しづつ遅くなる。ゆっくりと穴が近づくにつれ、胸の鼓動が早くなるのがわかった。口笛を吹きたくなったが、くちびるがうまく動かせない。口笛ってどうやって音をだすんだ?口笛を覚えたのは小学生のころだっただろうか。なかなか音がでずに悔し泣きをしたっけ。猫がこっちを見ている。石積みの塀とは反対側にある家には、いつも何匹かの猫が集まっている。今夜は君だけかい?手と足だけが白くて胴体は縞模様をしたその猫は、返事をしないかわりに金色の目を一度だけ閉じると、音もなく路地の暗闇に消えていった。口笛はやっぱり音がでない。穴はもう目の前に見える。穴は一切の光を受け入れず黒々と地面を切り取っていた。何も見えないし、何も聞こえない。どのくらい深いのかさえも想像できないほど不思議な闇をたたえていた。ただ、アスファルトの白線がとてつもなく深く深くのみ込まれているような気がした。
穴をやり過ごしてまた坂道を登り始めた。
坂を上って右に曲がると小さな公園がある。春になると桜が咲き、花びらが風に吹かれてこの坂道を薄桃色に彩るのだ。その桜さえ、どこに月が隠れてしまったかわからないでいるらしい。すっかり葉を落とした枝が、まるでレントゲン写真に映し出される血管のように黒々と夜空に伸びていた。後ろのほうで猫がささやくように鳴いた。振り返ることなく歩いた。行く手にまた穴が現れた。ひとつため息をつくと、また新しい穴が現れた。今度はすこし大きな穴のようだ。坂道の真ん中に現れたものだから、先へ進むには穴と穴の間を歩かなければならない。もっとも、その穴がどのくらい深いのかは知らないし、そもそも穴なのかどうかも疑わしい。今夜は月がないのだから、本当に深い穴なのか、ただのくぼみに過ぎないのか確かめることができないのだ。なにかを投げ込んでみてはどうか?昔読んだ星新一のショートショートを思い出す。何を投げ込んでものみ込んでしまうその穴は、やがて人間のわがままさえものみ込んでくれる都合のよい穴になるのだが、それは後にとんでもないつけとなって人間に帰ってくるというストーリーだった。しかし、目の前の穴はそんなユーモアのある穴ではないことはわかっていた。下を見ずに、穴と穴の間を飛び越えるようにして通り過ぎた。
またどこかに穴が現れるのではないか。
そんな気持ちを抱きながら坂道を歩いた。坂道はいつもより長く続いているみたいだ。胸の鼓動はいくぶん静まったが、手にはまだ汗をかいている。ハンカチを忘れていることは朝の電車の中で気づいていた。ジーンズの腿のあたりで汗をふくと、ひんやりとした夜風が手のひらに感じられて心地よかった。立ち止まってゆっくりと振り返ってみた。坂の途中に穴などどこにも見えない。左側の家の前にはさっきの猫が座っていた。姿勢良く両手をそろえて何か言いたげな顔をして見ている。そんな目で見ないでくれよ。気持ちが通じたのか、猫はしっぽのない尻を大きく持ち上げながら背を伸ばしたあと、まるで関心がなかったかのようにどこかへ歩いていってしまった。ためしに大きくため息をついてみた。そこにはいつも見慣れたアスファルトの道があるだけだった。坂を上りきると青白い街灯の明りが見えてきた。ねずみ色の細く頼りない鉄柱の上に取り付けられた蛍光灯が、月のない夜の道を、ぼんやりと照らし出していた。"
いつからだろうか、穴は石積みの塀が続く坂道の途中にぽっかりと空いていた。きのう歩いたときは気づかなかった。長く続いていたアスファルトの白線はそこで途切れていた。まるでそこで地平が終わったかのようにぷっつりと。どのくらいの大きさなのだろうか。坂道を上る足が少しづつ遅くなる。ゆっくりと穴が近づくにつれ、胸の鼓動が早くなるのがわかった。口笛を吹きたくなったが、くちびるがうまく動かせない。口笛ってどうやって音をだすんだ?口笛を覚えたのは小学生のころだっただろうか。なかなか音がでずに悔し泣きをしたっけ。猫がこっちを見ている。石積みの塀とは反対側にある家には、いつも何匹かの猫が集まっている。今夜は君だけかい?手と足だけが白くて胴体は縞模様をしたその猫は、返事をしないかわりに金色の目を一度だけ閉じると、音もなく路地の暗闇に消えていった。口笛はやっぱり音がでない。穴はもう目の前に見える。穴は一切の光を受け入れず黒々と地面を切り取っていた。何も見えないし、何も聞こえない。どのくらい深いのかさえも想像できないほど不思議な闇をたたえていた。ただ、アスファルトの白線がとてつもなく深く深くのみ込まれているような気がした。
穴をやり過ごしてまた坂道を登り始めた。
坂を上って右に曲がると小さな公園がある。春になると桜が咲き、花びらが風に吹かれてこの坂道を薄桃色に彩るのだ。その桜さえ、どこに月が隠れてしまったかわからないでいるらしい。すっかり葉を落とした枝が、まるでレントゲン写真に映し出される血管のように黒々と夜空に伸びていた。後ろのほうで猫がささやくように鳴いた。振り返ることなく歩いた。行く手にまた穴が現れた。ひとつため息をつくと、また新しい穴が現れた。今度はすこし大きな穴のようだ。坂道の真ん中に現れたものだから、先へ進むには穴と穴の間を歩かなければならない。もっとも、その穴がどのくらい深いのかは知らないし、そもそも穴なのかどうかも疑わしい。今夜は月がないのだから、本当に深い穴なのか、ただのくぼみに過ぎないのか確かめることができないのだ。なにかを投げ込んでみてはどうか?昔読んだ星新一のショートショートを思い出す。何を投げ込んでものみ込んでしまうその穴は、やがて人間のわがままさえものみ込んでくれる都合のよい穴になるのだが、それは後にとんでもないつけとなって人間に帰ってくるというストーリーだった。しかし、目の前の穴はそんなユーモアのある穴ではないことはわかっていた。下を見ずに、穴と穴の間を飛び越えるようにして通り過ぎた。
またどこかに穴が現れるのではないか。
そんな気持ちを抱きながら坂道を歩いた。坂道はいつもより長く続いているみたいだ。胸の鼓動はいくぶん静まったが、手にはまだ汗をかいている。ハンカチを忘れていることは朝の電車の中で気づいていた。ジーンズの腿のあたりで汗をふくと、ひんやりとした夜風が手のひらに感じられて心地よかった。立ち止まってゆっくりと振り返ってみた。坂の途中に穴などどこにも見えない。左側の家の前にはさっきの猫が座っていた。姿勢良く両手をそろえて何か言いたげな顔をして見ている。そんな目で見ないでくれよ。気持ちが通じたのか、猫はしっぽのない尻を大きく持ち上げながら背を伸ばしたあと、まるで関心がなかったかのようにどこかへ歩いていってしまった。ためしに大きくため息をついてみた。そこにはいつも見慣れたアスファルトの道があるだけだった。坂を上りきると青白い街灯の明りが見えてきた。ねずみ色の細く頼りない鉄柱の上に取り付けられた蛍光灯が、月のない夜の道を、ぼんやりと照らし出していた。"
2008年10月18日
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