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NCCアナウンサー 溝田 浩司ブログ:2008年7月
学生カバン
"朝の通勤列車ほど読書にふさわしい空間はないと思っている。「通勤列車」といっても長崎の路面電車に押しつぶされそうなあの過剰な通勤ラッシュはない。さすがに朝は座ることはできないが、隣りの通勤客と肩が触れることはほとんどないくらいの空間といえばお分かりいただけるだろうか。とはいえ、運転席から遠いところに立っていると降りるときに面倒なので、なるべく前の方に立つことにしている。
長崎の路面電車をご存じない方のために念のため解説を加えておくが、電車は一両のみで、真ん中あるいは後ろに入り口があり、運転席の横に降り口がある。ここに金属製の使い古された料金箱があり、降りるとき運転手の目の前でカチャリと音を立てて100円玉を投げ込むことになっている。ところが、最近「スマートカード」というプリペイド式のカードが路面電車の車両にも導入され始め、この料金箱が消えつつあるのだ。料金箱の代わりに出現したのはカードを軽くタッチするだけで料金を精算する装置。これがすこぶる反応が悪く、カードを名刺入れに入れたままではうまく反応してくれない。カードは確かに便利だが、100円玉を投入するあの感覚がいずれ味わえなくなるのはちょっとさびしい。しかも100円の均一料金から、近い将来値上げに踏み切るのではとの声も聞こえてくる。庶民の足であると同時に観光名物でもある路面電車。昔ながらの姿に会える日は残り少ないのかもしれない。
さて、脱線はこのくらいにして話を朝の通勤列車に戻そう。それはちょうど「天切り松闇がたり第四巻」の第二夜、「日輪の刺客」のクライマックスにさしかかろうとしていたときだった。隣には清純の象徴ともいうべき純白のブラウスを着た女子高生が立っていた。まさかこの女子高生が突然へをこいた、なんていう無粋な話ではもちろんない。運転席のそばにいたその女子高生は、電停が近づくと定期券をとりだし降車ボタンを押して一番に電車を降りた。
「目をおさましなさいやし...」天切り松の闇がたりは、書生常扮する本多少佐が相沢中佐と向き合う場面にさしかかっていた。路面電車の社内では、乗客が降りると前へ前へと詰めるのが正しいルールだ。つり革をひとつでも空けたまま立っている乗客がいたら、それは観光客かよほどの横着者である。天切り松の松蔵がその場にいたらこういうだろう。
「お勤めの旦那、つり革がひとつ空いていやすぜ。ちょいと前の方へお詰めなさいやし...」。 天切り松はともかく、その女子高生が立っていた場所に一歩詰めようとしたとき、その事件は起きた。足元に学生カバンがひとつ残されていたのである。
「えっ?あ、あの...、これって忘れてません?」
「えっ、あ、あの、そうですね、いまの高校生の・・・ですよね?」
黒のサブリナパンツに小花柄の白いバタフライチュニックを着た女性が足元を見ながらつぶやいた。木製の床には濃紺の学生カバンがぽつんと置かれている。県内でも有数の女子高のカバンである。持ち手にぶら下がったフェルト人形が先ほど降りた女学生を連想させた。電停を見ると補助バッグだけを提げた女子高生が気づかないまま横断歩道を渡っているではないか。朝の路面電車は忙しい。運転士は自動ドアの開閉ボタンに手をかけた。
「運転士の旦那、ちょっとまっておくんない。学生さんがカバンを忘れちまったようで・・・。いや、知り合いってぇほどじゃぁござんせんが、あっしがあの学生さんにカバンを届けてまいりやしょう」。そういうが早いか、松蔵は学生カバンをつかむと100円玉をブリキの箱に投げ込み勢いよく電車を飛び降りた。
学生カバンの重みに懐かしさを覚えながら横断歩道を渡ると、果たしてその女学生はいまだ気づかないまま歩道を歩いていた。啖呵を切って飛び降りたはいいものの、いざ学生を目の前にするとどうにも緊張してしまう。
「あの、ちょいとお嬢さん、もしやカバンをお忘れではねぇですかい」
気がつくと、松蔵は学校へ向かう女学生の波に飲み込まれていた。通学の時間だから無理もない。歩道は同じ方向に歩く純白のブラウスで埋め尽くされ、男子禁制の雰囲気さえ漂っていた。振り向いた女学生は、いるはずのない異性を教室に見つけたような表情を見せると一瞬後ずさりした。
「いえ、あっしは怪しいものじゃありやせん。さっきの電車に乗り合わせた村田松蔵と申しやす。このカバン、お嬢さんのものにちげえねえと思いやして...」
学校へと急ぐ女学生の人波が二人を避けるように通り過ぎてゆく。松蔵は流れに逆らう一本の杭のように立ちつくしたまま、学生カバンを差し出した。女学生は右手にカバンがないことに気づくと、にっこりと微笑んでカバンを受け取った。少女の指先が松蔵の手に少しだけ触れた。
「ねぇちょっとぉ!このカバン、忘れてませんかぁ!」
赤信号で電車が停車していたのが幸いだった。開いたままのドアからサブリナパンツの女性が女子高生に向かって叫んだ。「すみません...」。驚いて戻ってきた三つ編みの女子高生は、電車のドアからカバンを受け取ると何事もなかったかのように横断歩道を渡り、白いブラウスの人波に飲み込まれていった。
女子高生がいた場所に一歩詰めると、ブザーとともにドアが閉まり路面電車は再びレールの上を走り始めた。
「永田閣下、天誅であります」。天切り松闇がたり第四巻、日輪の刺客は佳境に入っていた。"
長崎の路面電車をご存じない方のために念のため解説を加えておくが、電車は一両のみで、真ん中あるいは後ろに入り口があり、運転席の横に降り口がある。ここに金属製の使い古された料金箱があり、降りるとき運転手の目の前でカチャリと音を立てて100円玉を投げ込むことになっている。ところが、最近「スマートカード」というプリペイド式のカードが路面電車の車両にも導入され始め、この料金箱が消えつつあるのだ。料金箱の代わりに出現したのはカードを軽くタッチするだけで料金を精算する装置。これがすこぶる反応が悪く、カードを名刺入れに入れたままではうまく反応してくれない。カードは確かに便利だが、100円玉を投入するあの感覚がいずれ味わえなくなるのはちょっとさびしい。しかも100円の均一料金から、近い将来値上げに踏み切るのではとの声も聞こえてくる。庶民の足であると同時に観光名物でもある路面電車。昔ながらの姿に会える日は残り少ないのかもしれない。
さて、脱線はこのくらいにして話を朝の通勤列車に戻そう。それはちょうど「天切り松闇がたり第四巻」の第二夜、「日輪の刺客」のクライマックスにさしかかろうとしていたときだった。隣には清純の象徴ともいうべき純白のブラウスを着た女子高生が立っていた。まさかこの女子高生が突然へをこいた、なんていう無粋な話ではもちろんない。運転席のそばにいたその女子高生は、電停が近づくと定期券をとりだし降車ボタンを押して一番に電車を降りた。
「目をおさましなさいやし...」天切り松の闇がたりは、書生常扮する本多少佐が相沢中佐と向き合う場面にさしかかっていた。路面電車の社内では、乗客が降りると前へ前へと詰めるのが正しいルールだ。つり革をひとつでも空けたまま立っている乗客がいたら、それは観光客かよほどの横着者である。天切り松の松蔵がその場にいたらこういうだろう。
「お勤めの旦那、つり革がひとつ空いていやすぜ。ちょいと前の方へお詰めなさいやし...」。 天切り松はともかく、その女子高生が立っていた場所に一歩詰めようとしたとき、その事件は起きた。足元に学生カバンがひとつ残されていたのである。
「えっ?あ、あの...、これって忘れてません?」
「えっ、あ、あの、そうですね、いまの高校生の・・・ですよね?」
黒のサブリナパンツに小花柄の白いバタフライチュニックを着た女性が足元を見ながらつぶやいた。木製の床には濃紺の学生カバンがぽつんと置かれている。県内でも有数の女子高のカバンである。持ち手にぶら下がったフェルト人形が先ほど降りた女学生を連想させた。電停を見ると補助バッグだけを提げた女子高生が気づかないまま横断歩道を渡っているではないか。朝の路面電車は忙しい。運転士は自動ドアの開閉ボタンに手をかけた。
「運転士の旦那、ちょっとまっておくんない。学生さんがカバンを忘れちまったようで・・・。いや、知り合いってぇほどじゃぁござんせんが、あっしがあの学生さんにカバンを届けてまいりやしょう」。そういうが早いか、松蔵は学生カバンをつかむと100円玉をブリキの箱に投げ込み勢いよく電車を飛び降りた。
学生カバンの重みに懐かしさを覚えながら横断歩道を渡ると、果たしてその女学生はいまだ気づかないまま歩道を歩いていた。啖呵を切って飛び降りたはいいものの、いざ学生を目の前にするとどうにも緊張してしまう。
「あの、ちょいとお嬢さん、もしやカバンをお忘れではねぇですかい」
気がつくと、松蔵は学校へ向かう女学生の波に飲み込まれていた。通学の時間だから無理もない。歩道は同じ方向に歩く純白のブラウスで埋め尽くされ、男子禁制の雰囲気さえ漂っていた。振り向いた女学生は、いるはずのない異性を教室に見つけたような表情を見せると一瞬後ずさりした。
「いえ、あっしは怪しいものじゃありやせん。さっきの電車に乗り合わせた村田松蔵と申しやす。このカバン、お嬢さんのものにちげえねえと思いやして...」
学校へと急ぐ女学生の人波が二人を避けるように通り過ぎてゆく。松蔵は流れに逆らう一本の杭のように立ちつくしたまま、学生カバンを差し出した。女学生は右手にカバンがないことに気づくと、にっこりと微笑んでカバンを受け取った。少女の指先が松蔵の手に少しだけ触れた。
「ねぇちょっとぉ!このカバン、忘れてませんかぁ!」
赤信号で電車が停車していたのが幸いだった。開いたままのドアからサブリナパンツの女性が女子高生に向かって叫んだ。「すみません...」。驚いて戻ってきた三つ編みの女子高生は、電車のドアからカバンを受け取ると何事もなかったかのように横断歩道を渡り、白いブラウスの人波に飲み込まれていった。
女子高生がいた場所に一歩詰めると、ブザーとともにドアが閉まり路面電車は再びレールの上を走り始めた。
「永田閣下、天誅であります」。天切り松闇がたり第四巻、日輪の刺客は佳境に入っていた。"
2008年07月13日
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