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NCCアナウンサー 溝田 浩司ブログ:2008年4月
長崎市立図書館
"満開だったさくらに美しい若葉が芽吹き始めた4月3日の午後、ふと思い立ち長崎市立図書館に立ち寄った。開館したのは1月。足を向けるきっかけをつかめないまま、ずるずると4ヵ月が過ぎてしまっていた。
正面の右隅にあるさくらは、たしか取り壊される前の新興善小学校に咲いていたあのさくらではないか。とすると、このあたりが正門だったはず...。見上げていた二宮金次郎の像は手の届く場所に下ろされていた。
市立図書館には「救護所メモリアル」と呼ばれるコーナーがある。明るい光に包まれた書架とは離れた場所にあるそのコーナーは、図書館の機能とは直接関係はないが、被爆地ナガサキにとって大きな意味のあるコーナーであることを、訪れる市民のだれもが心の片隅で意識している場所である。
原爆の日、新興善小学校は救護所となり原爆で焼かれた人々であふれた。「治療」が行われた教室では非人間的な死が繰り返された。悲しみなどという温もりのある感情が入り込む隙はなかったに違いない。
救護所跡でもある校舎をどうするか。図書館建設の計画が持ち上がったとき、それが大きな問題となった。校舎の一部保存を求める市民は解体工事が始まった校舎を取り囲んで取り壊し反対を唱えたが、結局すべてが取り壊され新しい図書館が建った。「救護所メモリアル」は、一部保存していた教室の床や壁、窓枠などを使って再現したものだ。足を踏み入れると、老女が一人、見学者用の長椅子に腰かけスピーカーから流れる音声に耳を傾けていた。
再現教室には短いドキュメンタリー映画が上映されている。
壁に貼り付けられた説明書によると、題名は「あの日 この校舎で-50年前に被爆したナガサキの記憶」という。当時看護婦として被爆者の救護にあたった人々の偽りのない証言集だ。そのドキュメンタリーを最後まで見た。長椅子に座っていた老女はいつの間にかいなくなっていた。
それから3日後。新聞に荒木正人さん死去の記事が載った。長崎市の元職員で、全5巻に及ぶ長崎原爆戦災誌の編集を担った方だ。物静かで控えめな人だったが、語りだすと熱が入った。しばらく話すうちにあれもこれもといろいろ話しをしてくださったのを思い出す。葬儀場には古びた原爆戦災誌が置かれていた。一冊には無数の付箋が貼り付けられ、細かい改訂作業のあとが残されていた。その一枚一枚に荒木さんを突き動かした強い使命感を垣間見た気がした。
奥様が残したものだろう。荒木さんを紹介する新聞紙面も戦災誌のそばに置かれていた。 その一枚に、再現された救護所メモリアルに立つ荒木さんの写真を見つけた。写真の中の荒木さんは、やや背が丸くなり杖をついているようにも見えた。しかし、カメラのレンズを見据える目ははっきりとしていた。手記を読み、前述のドキュメンタリーの上映は荒木さんの提案によるものと知った。
原爆を知る人はいずれいなくなる。しかし、荒木さんが残した戦災誌はこれからも多くの人に読み継がれるに違いない。
それは亡くなった荒木さんの願いでもある。"
正面の右隅にあるさくらは、たしか取り壊される前の新興善小学校に咲いていたあのさくらではないか。とすると、このあたりが正門だったはず...。見上げていた二宮金次郎の像は手の届く場所に下ろされていた。
市立図書館には「救護所メモリアル」と呼ばれるコーナーがある。明るい光に包まれた書架とは離れた場所にあるそのコーナーは、図書館の機能とは直接関係はないが、被爆地ナガサキにとって大きな意味のあるコーナーであることを、訪れる市民のだれもが心の片隅で意識している場所である。
原爆の日、新興善小学校は救護所となり原爆で焼かれた人々であふれた。「治療」が行われた教室では非人間的な死が繰り返された。悲しみなどという温もりのある感情が入り込む隙はなかったに違いない。
救護所跡でもある校舎をどうするか。図書館建設の計画が持ち上がったとき、それが大きな問題となった。校舎の一部保存を求める市民は解体工事が始まった校舎を取り囲んで取り壊し反対を唱えたが、結局すべてが取り壊され新しい図書館が建った。「救護所メモリアル」は、一部保存していた教室の床や壁、窓枠などを使って再現したものだ。足を踏み入れると、老女が一人、見学者用の長椅子に腰かけスピーカーから流れる音声に耳を傾けていた。
再現教室には短いドキュメンタリー映画が上映されている。
壁に貼り付けられた説明書によると、題名は「あの日 この校舎で-50年前に被爆したナガサキの記憶」という。当時看護婦として被爆者の救護にあたった人々の偽りのない証言集だ。そのドキュメンタリーを最後まで見た。長椅子に座っていた老女はいつの間にかいなくなっていた。
それから3日後。新聞に荒木正人さん死去の記事が載った。長崎市の元職員で、全5巻に及ぶ長崎原爆戦災誌の編集を担った方だ。物静かで控えめな人だったが、語りだすと熱が入った。しばらく話すうちにあれもこれもといろいろ話しをしてくださったのを思い出す。葬儀場には古びた原爆戦災誌が置かれていた。一冊には無数の付箋が貼り付けられ、細かい改訂作業のあとが残されていた。その一枚一枚に荒木さんを突き動かした強い使命感を垣間見た気がした。
奥様が残したものだろう。荒木さんを紹介する新聞紙面も戦災誌のそばに置かれていた。 その一枚に、再現された救護所メモリアルに立つ荒木さんの写真を見つけた。写真の中の荒木さんは、やや背が丸くなり杖をついているようにも見えた。しかし、カメラのレンズを見据える目ははっきりとしていた。手記を読み、前述のドキュメンタリーの上映は荒木さんの提案によるものと知った。
原爆を知る人はいずれいなくなる。しかし、荒木さんが残した戦災誌はこれからも多くの人に読み継がれるに違いない。
それは亡くなった荒木さんの願いでもある。"
2008年04月19日
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